マルタ・シチリア通信


2017年6月9日~6月30日
神原克収

目次

1.旅の概要 2 早々のトラブル
3 マルタの歴史 4 マルタの歴史(その2)
5 マルタの印象 6 シチリアについて
7 エトナ山は活火山 8 フェリーでドブロクニクへ
ここからクロアチア・モンテネグロ通信 9 ザダル 10 ヨーロッパの料理は塩辛い
11 クロアチアの飛び地 12 マルコポーロ生誕地?(コルチュラ島)
1 3 ドブロクニク(その1) 14 ドブロクニク(その2)
15 ドブロヴ ニク(その3) クルーズ船のメッカ 16 モンテネグロの印象
17 モンテネグロと日本は 101 年間戦争状態であった 18 女性の魅力
19 ビデと温水洗浄便座 20 Air bnb のトラブル(マルタ編)

1.旅の概要
 今回もロングステイクラブの仲間25人とクロアチア人のエレナさん、合計26名の旅で期間は21日間。加えて我々夫婦とMさん(女性)の3人で事前にマルタ3泊+N夫妻と我々4人で事後に南イタリア8泊、合計32日間の旅です。
 今回もマルタのホテルに現地集合でスタートした。当然のことながら航空券は各自手配。
2人分の費用は本体の21日間で721,000円+航空券140,000円(ローマ往復+現地で片道2回)=861,000円/2人。
これに事前のマルタのアパート3泊22,000円+南イタリアのアパート8泊85,000円。総合計=2人で868,000円
 全体で動く21日間の宿泊はホテルですが、個人で動くマルタ3泊と南イタリア8泊は全てアパートにしました。アパートは広さが圧倒的に広くゆっくりくつろげます。キッチンは器具も揃っているので部屋食も楽しめま。難点は朝食がついていないのと初日の鍵の受け渡しを事前に打ち合わせておく必要があるくらいで大変快適に過ごすことが出来ます。詳細は後日ご報告しますが、最近は個人旅行ではアパートでの宿泊を基本にしています。今まで何回か利用しましたが特段の支障はなく事前に想定した範囲内で十分満足しています。日本でも民泊が急速に増えているのは頷けますし、今後更に普及が加速するでしょう。
《ルート》
マルタ(4泊)~シチリア(3泊)~船中(1泊)~クロアチア(6泊)~モンテネグロ(4泊)~機中(1泊)
追加でマルタ3泊、ナポリ・ソレント(8泊)

※後日ご報告しますが、今回初めて若干のトラブルがありました。でも決定的なものではなく、
今後もAir bnbを積極的に利用するつもりです。



2 早々のトラブル
 今回は出だしから躓いた。それがケチのつき初めで全体を通して次々と小さなトラブルとは言えない齟齬が発生し、まさに「トラベルとはトラブルなり」だった。でもそれらのトラブルもその都度対応しトラブルそのものを楽しむことが出来全体としては上々の旅であった。
 最初のトラブルはトランクの未着である。関空からアシアナ航空で仁川経由ローマに飛び、マルタ航空に乗り継いでマルタに行った。
 アシアナ航空がローマに2時間近く遅れたため、ローマで荷物を受け取る暇がなく、荷物なしでマルタ航空に乗り継いだ。マルタ空港到着後荷物配達の手続きをしアパートに向かった。
 翌日は観光に出て夕方帰宅したときは当然荷物が届いていると安心していたが案に相違して未着。翌日も、さらにその翌日も届かず結局まるまる3日間荷物なしで過ごした。
 下着類は購入して凌いだが、パソコンとスマホの充電が出来ず、どちらも電池切れで使えず一切の連絡手段が断たれてしまった。
 その後クロアチア人ガイドのエレナさんと落ち合い、空港へ行ったり、ホテルで借りた電話で空港へ何回も電話したりしたが埒が明かず、結局届いたのは3日後の夜であった。
 今後の教訓として「1日分の下着類、薬、PCやスマホの電源関係は機内持ち込みにしておくべき」ということを骨の髄まで叩き込まれた。

マルタ航空機とマルタ空港
3 マルタの歴史
 マルタ共和国は人口43万人、国土は東京23区の半分くらいの小さな国である。首都ヴァレッタは海に面した部分全てが城砦に囲まれている。この城砦は聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)が造ったものだ。この騎士団は1113年に十字軍の負傷者と病人看護の目的でエルサレムに創設されたが1291年にイスラム教徒に追われキプロス島、ロードス島などイタリア、フランス、ギリシャを転々としたのちマルタまで落ち延びた。この地で商業・貿易で基礎を築き、病院建設とともにトルコ軍に備えて強固な城砦を築いた。(資金は欧州各国からの寄付)
 1565年強大なオスマントルコ軍の3か月に及んだ大包囲戦を凌ぎ切り経済文化両面で大発展した。しかし鉄の掟を誇った騎士団も平和な時代とともに堕落し、1798年エジプト遠征途中のナポレオン軍に無抵抗で降伏し、268年に及んだマルタ騎士団支配の幕は閉じられた。その後イギリス支配が160年以上続き、1974年マルタ共和国として独立した。




4 マルタの歴史(その2)
 マルタはマルタ騎士団の拠点として有名だが世界最古の神殿が存在したことでも有名である。最古のものは紀元前3600年のジュガンティーヤ神殿、BC 3000~2400年の間に30か所以上作られたという。
 今まで最古と思われていたのはエジプトのピラミッドでBC 2500年だからそれより1000年以上も前に巨石文化があったことが確認されている。その以外ではイギリスのストーンヘンジがBC 2000年、クレタのクノッソスがBC 1700年、万里の長城はぐっと新しくBC 214年。
 5000年も前にどうやって数十トンの巨石を運び込み、積み上げていったのか、多くは今でも謎でロマンを掻き立ててくれる。
 ガイドブックには各神殿で写真のような巨大な女神が飾られていたと書いているが、今回行った3か所では1か所しか確認出来なかった。この女神は豊穣のシンボルとして崇められていたのであろう。
 



















 


5 マルタの印象
 本通信NO3でも述べたが首都ヴァレッタの海に面している部分は全て城壁で覆われている。
旧市街の街並みは美しく、どこを切り取っても絵になる。その原因の一つは屋根の色が統一されていることであろう。これはヨーロッパ全体に言える特徴である。日本も日本瓦で統一すれば素晴らしい景観になると思うが、残念ながら地震に弱いというレッテルを貼られて悪者扱いされている現状では望むべくもない。
 抜けるように澄んだ青い空、澄み切ってどこまでも青い海、縦横無尽に走り回る観光船、いつまで見ても飽きることはない。観光客が押し寄せるはずだ。旧市街を歩いていて目に就いたのが空き家の多いことである。勿論具体的な数など判るはずもないが、とにかくよく目につく。聞くところによると観光以外にこれといった産業はなく、平均月収は€1,000程度だが社会保証費は殆どが無料とのこと。にも拘わらず空き家が多いのは税制に原因があるらしい。
 富裕層はいろんな理由で海外に出るが固定資産税が無料のため、自宅などを処分せず空き家で保有したまま放置している。それらが長年蓄積し、今日のように空き家が目につく状態にまでなった、というのである。今では持ち主を特定することすら難しい状況のようだ。
 何はともあれ世界最古の巨石文化を育んだ国、マルタ騎士団が築き上げた城塞都市、整備された海岸線沿いの遊歩道等々小さい国ながら魅力いっぱいの島である。



ヨットの帆柱林立



どこまでも深い海の青、抜けるような空の青

6 シチリアについて
 今回マルタは7泊したがシチリアは僅か3泊で、シラクサ、パレルモ、ジャルディーニ・ナクソスにそれぞれ1泊で、我々の旅行スタイルからすると異例の忙しい旅となった。そのため事前に詰め込んだ知識を確認することなく、慌ただしく駆け抜けた。機会があればここだけで最低1週間は滞在したいところである。
 シチリアはBC8C~フェニキア人(500年)、BC3C~ローマ帝国(700年)、6 C~ビザンチン(東ローマ帝国)(300年)、9 C~サラセン人(イスラム)(200年)、11 Cノルマン人(200年)と比較的安定した支配が続いた。
 首都パレルモにはサラセン・ノルマン時代の栄華の跡が今も残り、当時の教会や建物群9ケ所が世界遺産に登録されている。西洋文化とイスラム文化が融合し、いま大きな財産となっている。これはノルマン王朝が前の支配者イスラム文化に破壊よりも融和の姿勢で臨んだことが大きい。
 ネットで調べると次のように記述されているが、今回はそれを実感することなくバタバタと通り過ぎた。
《世界遺産はその当時、異なる宗教をもつ異民族(イスラム、ビザンチン、ラテン、ユダヤ、ロンゴバルド、フランス)が共存を果たし繁栄したことをも証明しています。》
 近世以降は1266年アンジュー家、1442年アンゴラ家、1712年サヴォイ家、1718年ハプスブルグ家、1735年ブルボン家と1860年にイタリアに統一されるまで目まぐるしく時代が移り変わった。

大聖堂前で記念撮影(パレルモ)


パレルモの中心部にある「クアットロ・カンティ」、交差点の四隅に同様の建物がある。
下段の噴水は春夏秋冬を表す、2段目は歴代スペイン総督、一番上は町の守護聖人。(17C)



(上左)シラクサの海岸風景          (上右)卸売市場にて(パレルモ)       
(下左)ギリシャ時代の円形劇場         (下右)可愛い鼓笛隊(シラクサ)


7 エトナ山は活火山
 シチリアにあるエトナ山は3,329mの高さでヨーロッパでもっとも活発な活動を続けている活火山である。今年も3月に大規模な噴火を起している。
 今はシチリア島で有数の観光地で、車で1,900 mまで簡単に行ける。そこからロープウエイで2,500 mまで登れ、そこから3,000 mまではジープで行ける。更にガイド付きなら頂上近くまで行けるとのこと。
 エトナ山の1,900 m付近は観光客であふれている。年に10回前後噴火が起きるのに危なくないのか?マグマの流動性が高いため溶岩ドームは出来ない。また、粘度は低いが傾斜が緩いので溶岩の流れるスピードが遅いため逃げる余裕がある。そのため平気で観光客を入れているとのこと。
そうは言っても今年3月にはイギリスBBCの取材クルーが撮影中に爆発し、命からがら逃げかえっている。(直後の様子を伝えるビデオhttp://www.bbc.com/japanese/video-39300172)。
 またレストハウスのTVでで流している映像を見ていると結構被害も出ている。にも拘わらず入山規制をしないのは日本では考えられないおおらかさである。
 余談ながら今年BBCのクルーが遭難しかかったときゲレンデでスキーを楽しんでいる人の映像がネットに出ている。信じられない光景ではある。
 日本は事故が起きると役所や管理者の責任は厳しく問われるが、よほどのことが無い限り自己責任を問われることはない。一方欧米ではある程度の規制はするが「それ以上は自己責任でどうぞ」というのが基本的な考え方のようだ。欧米方式に全面的に賛同は出来ないが、日本も「自己責任」という概念は持ち込んだ方が良いと思うが如何でしょうか?
 
雄大なエトナ山、1900mのレストハウス(写真左奥)近辺のクレーターは散策出来る

 
1983年の爆発時の写真

 
 
溶岩に圧し潰された

   
溶岩のすぐそばでスキーを楽しむ人

8 フェリーでドブロクニクへ
 シチリアからクロアチアまで移動したがハイライトはイタリア南部のバーリからドブロクニクへアドリア海を横断する船旅である。この航路は週2便と少なく、ガイドのエレナさんは個室を26名分確保するのに苦労したようだ。幸い窓無しながら全員個室が確保出来た。一部屋に2段ベッドが2つあり、そこを2人で使うので十分過ぎるくらい贅沢である。シャワー・トイレ付きで申し分ない。
 ところが部屋は左舷と右舷に半々に分れたのだが、左舷側の部屋の冷房が効かず蒸し風呂状態。苦情を言ったら即刻代わりの部屋を用意してくれたが、この部屋は二段ベッドが一つだけと狭く、二段ベッドは高齢者にはややきつい。結局半分の人はエアコンの効いた狭い部屋に移ったが、半分の人はそのまま残り、ドアを開けたままで大汗をかきながら寝る羽目となった。私は初めから右舷で問題なく快適な一夜を過ごしたが、折角の船旅も後味の悪いものとなり残念であった。
 船での食事は高いというので当日夜と翌朝の2食分の食料を買い込んで乗船した。ところが朝食がついていた。よくよく聞いてみると船側の手違いで朝食付きとなったようだ。この辺のいい加減さは日本では想像しにくいことながらラッキーであった。功罪両面あった船旅も無事終わり、いよいよ後半のアドリア海諸国の旅が始まった。次回からクロアチア・モンテネグロ通信とタイトルを変えてお届けします。






部屋は広く大満足

シャワー・トイレ付き

思わぬ朝食付となりラッキー

弾ける女性陣(ポップコーンガールズ)
ここからクロアチア・モンテネグロ通信 9 ザダル
 ザダルはクロアチア北部の海沿いの町で人口7万人強という小さな町である。BC9Cころか人が住んでいたようだが、絶好の地理的条件から色々な民族に狙われ支配者がクルクルと変わった。
 この小さな町には世界に誇る2つのものが存在する。一つは世界で最も美しいといわれる夕陽、あと一つはシーオルガンである。
 世界一と銘打っている夕陽は確かに綺麗ではあるが、これくらいの夕陽はあちこちにあり、要は「言った者勝ち」のようなものである。
 もう一つのシーオルガンは地味だが面白い存在である。場所は夕陽の絶景ポイントになっている海岸で、ここはユーゴスラヴィアからの独立戦争で爆撃され破壊された岸壁の跡地にクロアチアの建築家が平和の願いを込め無償で造った。
 シーオルガンの構造は次のようなものである。浜辺の階段の下に調律された35本のパイプを埋め込み、階段に作った風穴から入る風で幻想的な音が出る仕組みになっている。従って人間がオルガンを弾くようなメロディにはならないが、実にユニークな発想で地味ながら十分観光客を引き寄せる力を持っている。
シーオルガンと接して「太陽の挨拶」がある。これは直径10mくらいの円形の平面にソーラーパネルを敷き詰め、ライトを埋め込んだもので、夜になるとシーオルガンの音と共に波のリズムによって光のダンスが演じられる。
 夕陽を眺め、シーオルガンの音に癒され、夜になると光のダンスが同じ場所で楽しめる。今年開港150年を迎える神戸港あたりでも貧弱な記念行事でお茶を濁さず、ここの物真似をしろとは言わないが、こうした発想の施設を造れば良いのにィ、と思うのは小生だけではないだろう。
 
ザダルの旧市街、左が新市街

 
夕陽は確かに美しい

 
風の取り入れ口、左上に「太陽の挨拶」がある

 
音の出てくる穴

 
夜になると「太陽の挨拶」に人が集まってくる

 
10 ヨーロッパの料理は塩辛い
 今回の旅行を通して食事は南イタリアを除いて概ね塩辛く我々の口には合わなかった。勢いスーパーで食材を買って部屋食というケースも多かった。しかし日本のようにテイクアウト出来る食材は種類は多くなく、レタス、パプリカなどの生野菜や果物でしのぐことも多かった。
 ではなぜ欧州の食事は塩辛いのか?調べてゆくと「水」に辿り着く。数千年前は安心して飲める水が無かったため、その代わりとして水を使わないワインを飲むようになった(ドイツはビール)。ワインやビールに合う食べ物は当然のことながら塩分が多めになる。だから欧州の塩辛い食べ物は2-3,000年もの長きに亘って育まれた食文化なのである。では南イタリアでは辛くないのは何故か?いまだによく解らない。
 数千年も水代わりにワインやビールを飲んでいる内に結果としてアルコール分解酵素が多くなるようDNAに刷り込まれたのであろう。昼間からワインやビールを飲んでも日常生活の支障にならないようにするためそのような体になった。彼らが酒に強いわけはここにある。

どの料理も肉系はとくに辛い


左上:環境抜群、味まぁまぁ、塩辛いのが難点    
左下:部屋食が多くなる



 右上:この肉も辛かった
          右下:ホテルの朝食はバイキングで選べるのが良い


11 クロアチアの飛び地
 地図をご覧頂きたい。クロアチアの領土は幅10 km程度途切れていて、ボスニア・ヘルチェゴビナにより2分されている。
 このいきさつは2年前のアドリア海通信に記したが、再度ご覧いただきたい。2分されているためドブロクニクへ行くには一旦ボスニアヘルツゴビナへ入国し、更に出国してクロアチアに再度入国することになる。国内移動するのにパスポートが要るのである。
 では何故そんなことになったのか?話は17世紀まで遡る。この地はラグーザ共和国(ドブロクニク共和国の前身)の領土で北のベネチアの脅威を受けていた。その脅威を緩和するためこの地をオスマントルコに割譲しベネチアへの防波堤とした。それが今日まで尾を引いてボスニアヘルツゴビナ領となっている。ちなみに住民の大半はクロアチア人である。
 クロアチアはEUに加盟していてEUで領土が途切れているのはここだけである。2年前行った時も「橋を架けて(赤線部分)ボスニア・ヘルツゴビナを通らずにドブロクニクに行けるようにする」と言われていた。今回も全く同じ話でこの2年間殆ど進展はないようだ。
 現在ドブロクニクに行く観光客の多くはこの国境を越えて行く。その途中お土産屋があり大変繁盛している。理由はボスニアの方が物価が安いからである。将来は橋が架かると殆どが素通りするので、この店は立ち行かなくなることは間違いない。
 さぁ、どうする?でも橋がいつ出来るか判らないし、橋が架かる前にどんな政変や時代変化があるか判らない。「なるようになる」と腹をくくっているかも?

※次回はコルチュラ島を取り上げますので、位置を確認しておいて下さい。


繁盛しているお土産屋さんの外観と内部

12 マルコポーロ生誕地?(コルチュラ島)
 自由行動日を利用してコルチャラ島に行った。この島の位置は前回(No 11)の地図でご確認下さい。この島の売りは「マルコポーロの生誕地」である。Mポーロの生年と出生地は謎が多い。一応通説では12 54年ヴェネチア生れと言われている。しかしコルチュラ島ではこの島の生れと主張し、ヴェネチアと生誕地を争っている。
 事実Mポーロが住んでいた家も存在し、今では入場料を取って観光客を入れている。また、町ではMポーロショップが数軒ありMポーロブランドで色々のお土産物を売っている。
 「マルコポーロの家」に入ってみたがなんの変哲もなく、よくもこれで入場料を取るもんだと呆れるくらい何もない。ほかにマルコポーロ博物館もあるが、馬鹿々々しいので入場しなかった。
 この島はMポーロを売りにしなくても、それをはるかに凌駕する素晴らしい景色に恵まれている。この素晴らしい景観をなぜ売りにしないのかと不思議に思えるくらい素晴らしい。 
 海沿いのレストランで昼食を摂ったが抜けるような空の青、吸い込まれるような海の碧、沖行く船の数々、吹き抜ける爽やかな風、全てが絵になる。
 Mポーロを売りにしなくてもこの豊かな自然をもっと強調すれば観光客を引き付けることは可能ではないか。要は関係者に景色で客を引き付けるだけの知恵がないだけのことである。Mポーロで客を呼ぶのならもっと彼の関係資料を充実し、ヴェネチアから「マルコの生誕地」を奪い取るくらいの気迫が欲しいものだ。

マルコポーロ博物館


空の青、海の碧が印象的


海辺での昼食は最高の雰囲気


 マルコポーロが住んでいた家(写真正面)


  屋上からの景色 

1 3 ドブロクニク(その1)
 ドブロクニクは「アドリア海の真珠」と言われ、劇作家のバーナードショウをして「ドブロクニクを見ずして天国を語るなかれ」と言わしめた誠に美しい街である。この街は美しいだけでなく、ビザンチン帝国、ヴェネチア、ハンガリー、オスマントルコなど列強の支配を受けながらも13世紀初頭から1806年にナポレオンに滅ぼされるまでの約600年間「自由都市」を守り抜いた稀有の街でもある。
 この小さな都市( 旧市街は2 ㎢、 周囲Km2 、市街人口4,000人、市全体でも40,000人)は当時ラグーサ共和国と称していて海運、商業、観光で経済力を蓄えた。そして対外的に一貫して中立を守り、自分から他国へ一切戦争を仕掛けず、外部からの攻撃には外交を駆使して水際でかわしてきた。交渉には蓄えた経済力がものをいったのは当然である。
 ドブロクニクの衰えは1667年の大地震で壊滅的な打撃を受けたころから始まっている。それでも北からの脅威ヴェネチアの圧力を緩和するためオスマントルコにネウムという町を割譲し、ヴェネチアへの緩衝地帯とした。(これが今ではボスニア領土として残り、クロアチアが飛び地となっている原因となった)。巧みな外交を物語るエピソードである。

旧市街最大の目抜き通り「プラツァ通り」


1438年建造の大噴水、今でも湧き水が飲める


周囲約2kmの城壁は歩いて周れる

14 ドブロクニク(その2)
 「アドリア海の真珠」と言われるに相応しい美しい街である。兎に角美しい。美しさの最大の要因は旧市街の城壁とオレンジ色の屋根であろう。ドブロクニクに限らずヨーロッパの街はどこもオレンジ色の屋根が美しい。日本でも瓦屋根は美しいが殆ど残っていない。
 この街は過去2回ひどい目に合っている。最初は1667年の大地震と1991~2年のセルビアとの戦争(クロアチア紛争)である。地震では建物は破壊されたものの城壁の被害は軽微であったが、セルビアとの戦いでは半年間包囲され砲撃で徹底的に破壊された。
 今の街はその傷跡も殆ど見当たらないほど見事に修復されている。戦争で破壊されなかった建物の屋根はくすんだ色で、修復したものは鮮やかな色をしている。しかしくすんだ色は極めて一部で壊滅的な打撃を受けたことが見て取れる。
 城壁は周囲2kmで厚さは3~6m、高さは高いところで25mもある。また、背後に標高412mのスルジ山がある。城壁の上からとスルジ山からの眺めは素晴らしい。写真でご堪能下さい。
 
オレンジ色の屋根が美しさの主役

 
スルジ山から眺める旧市街、城壁に囲まれているのが良く判る。


砲撃された時の写真


 唯一爆撃されなかった修道院、屋根の色が違う


海から見る旧市街


後方はスルジ山


目抜き通りからスルジ山を臨む


 海べりの瀟洒な建物はチトー元大統領の別荘

15 ドブロヴ ニク(その3) クルーズ船のメッカ
クロアチアのドヴロヴニクはクルーズ船の寄港地として最も人気のある都市である。ホテルの前の岸壁には毎日2隻が朝入港し夜出港していった。旧市街にある港にも3隻が係留されていた。ガイドに聞くと毎日平均4隻程度は寄港しているらしい。大型船が接岸出来る埠頭が不足していて、沖合に停泊し小型船に乗り換えて上陸している船も半分くらいはいる。
神戸港や大阪港ではどれくらいか定かではないが、大型船に限れば月単位でもそれくらいと推測する。クルーズ文化が定着している欧米をバックグラウンドに持つクロアチアと、クルーズ発展途上のアジアをバックにする日本とでは比較すること自体が無理なくらい立ち遅れている。でもここにきて急速にクルーズブームが巻き起こりかけている。これから急速に増えるアジアのクルーズ市場を考え長期的な戦略を立てて進めば、日本には魅力的な観光資源が数多くあり将来的にクルーズ船の寄港地大国になることも夢ではない。今からでも遅くないので長期的視野に立って環境整備を進めて欲しいものだ。

クルーズ船はあちこちに見える


沖合に3艘並んで見える

16 モンテネグロの印象
 モンテネグロがどこにあるかご存じでしょうか?(地図でご確認下さい)
四国の 70%強の国土に人口62万人という超小国です。所得水準はクロアチアの3分の1、ドイツの10分の1程度と大変貧しい国です。物価もクロアチアより安く、特にビールやタクシーの安さは感動もの。(4つ星ホテルでのビール代€2、タクシー初乗り€1)
 全般的な印象は街は結構清潔でボスニア・ヘルツゴビナよりはマシという感じ。国民は怠惰な印象。ホテルレストランの従業員も仲間同士のお喋りをしているかか黙って椅子に座っている。
客の方は見ていないから手を挙げて呼んでも知らん顔。こちらから出向いて頼めば仕方なくやるという感じ。
 怠惰な例をもう一つ。宿泊は山合のリゾート地で4泊したが、首都ポドゴリッツァの観光に出掛けた。その際駅で列車待ちをしていたら3人の駅員が談笑していた。飲み物はコーラ、スプライトとビールである。彼らが勤務中なのか、休憩時間なのかは定かではないが、雰囲気からして仕事中の息抜きなのだろう。お陰で色々と話が出来て我々には好都合であったが・・・。
 この印象を電車の中で居合わせたモンテネグロ女性大学院生にぶつけてみたら、全くその通りとの返事。一般に日本人は「働くために食う」が欧州人は「食うために働く」と言われているのが実感として伝わってくる。「労働は贖罪のため」という宗教からくる考え方の違いなのであろうか?
 この街は第二次大戦で英国軍に徹底的に破壊された為、見るべきものは何もない。全て一から造り直しただけあって新しいだけが取り柄といったところか。




談笑する駅員(帽子は我々の仲間) 


 列車で居合わせた大学院生


 列車からの景色は絶景の連続

  
モンテネグロの観光地ヴドヴァではこんな看板も出ていた。誰が何のために作った看板か?
無茶苦茶な日本語だが、見事にモンテネグロ人の”怠惰”を皮肉っている。


     
17 モンテネグロと日本は 101 年間戦争状態であった
 日本とモンテネグロは101年間戦争状態であったということをご存知ですか?以下その事情です。
 19世紀モンテネグロはオスマントルコに支配されていた。1878年の露土戦争でロシアがトルコに勝ちモンテネグロは独立を手に入れた。1904 年に勃発した日露戦争に際しモンテネグロはロシア側に立ち 1905 年に日本に宣戦布告したが、実際には日本との戦闘は起こらなかった。
 この戦争は日本の勝利に終ったがモンテネグロは講和会議に招かれず講和条約にも署名していない。そのため国際法上では両国は戦争状態のまま月日が流れ、モンテネグロはユーゴスラヴィア崩壊に伴い 2005 年に独立を果たした。その翌年日本政府は総理大臣特使を派遣し、この独立承認と戦争終了宣言文書を手渡し、ようやく終戦を迎えた。開戦から 101 年後のことである。
※同じような例はたくさん存在するが 2 つだけ紹介しておきたい、
①BC 264 年に勃発したポエニ戦争(ローマとカルタゴの戦い)はBC 146 年にローマの勝利で終結したが平和条約は未締結のまま推移し、1985 年になってようやくローマ市とカルタゴ市の市長が平和条約を締結してピリオドが打たれた。実に 2,249 年間戦争状態であった。
②コスタリカとドイツは現在も戦闘状態である。コスタリカは第一次大戦でドイツに宣戦布告したが、当時のコスタリカ政府を英米が認めていなかったため講和会議に呼ばれなかった。そのため講和条約は調印しておらず、従って国際法上では戦争状態が継続していることになっている。(2014 年現在)

モンテネグロのモンサンミッシェルと言われている


 モンテネグロはワインでも有名


 首都ポドゴリッツァ空港 


 朝の散歩中に出会った村人と

18 女性の魅力
 ヨーロッパを旅していると女性の美しさが年齢とともに劇的に変わることに驚く。10代・20代の女性の美しさと、40 代以降の容姿の落差が余りにも激しいのである。
 若い女性は日本でも美しいが残念ながら美しさのレベルが違うと感じる。体型や肌の色つやなどから受ける感覚なのであろうが、とにかく美しい。
 ところが 30 代あたりからこの印象はガラリと変わる。年齢とともに遠慮なくブクブク太ってきて、40 代を過ぎるとまるで相撲部屋の様相になる。また肌はカサカサになりやがてサメ肌状態になってゆく。
 この点日本を含めてアジアの女性は加齢による体型の変化も少なく、肌の衰えも最小限に留め、上品に齢を重ねて殿方の目を楽しませてくれる。
 原因を考えてみた。
①やはり食べ物の質(肉中心)と量であろう。あれだけ食えば太るよなぁ。これを何千年も続けているので遺伝子も太るようになっているのであろう。
②日本人は美白と言って白い肌を好むが、彼らは白は病的に感じ小麦色を好む。そのため若いときに競って紫外線を浴びる。これが後年肌の衰えをもたらす最大の原因に違いない。
③日本人は周囲の目を気にしてダイエットに精を出すが、欧米人はゴーイングマイウエイで自らの体型・美貌は気にしない。
④日本人の化粧に掛ける時間とお金に比べ、欧米人のスキンケアは何でもクリーム 1 本で済ますという。真偽のほどは定かではないが彼らの変貌を見ているとさもありなんと頷ける。
 日本人に生まれてきて良かった!
19 ビデと温水洗浄便座
 日本では温水洗浄便座が普及(2016 年普及率:81%)しているが欧米では殆ど見ない。旅行中温水洗浄便座がないときは風呂のシャワーを使って凌いでいる。
 その代りヨーロッパではビデが普及していて温水洗浄便座の代役をしてくれ、ホテルでこれがあるとホットする。
 なぜ日本ではビデが普及せず温水洗浄便座なのか?なぜヨーロッパでは逆なのか?実は良く判らない。ネットで調べていると次のような説が目に着いた。曰く、「キリスト教では女性の局所は不浄とされ、そのため早くからビデが普及した。一方日本ではトイレが狭く便器とビデの両方を置くスペースがなく普及しなかった。」
 私の怪しい記憶ではビデは欧州特に南欧での普及は高かったように思う。またクロアチアではあったが、ボスニア・ヘルツゴビナやモンテネグロ、ウクライナでは無かったように思う。フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、マルタ、キプロス、アルバニアなど南欧ではあったように思うが定かではない。
 こうしてみると「キリスト教国=ビデ」というのは少々怪しい。さりとてイスラム教国でもあるかというと無いように思う。従って「キリスト教国=ビデ」というのは半分は当たっているのかもしれない。
 私のいい加減な推測では欧州は南部ほど普及率が高く、北へ行くにつれて低くなる。また西部ほど高く、東へ行くにつれて低くなる。但しなぜそうなのか?については何の根拠もない。どなたかご教授下さると有難い。
※アジアでは少しずつ温水洗浄便座が普及しつつあるが、それ以前にホース式で自分で処理するものが普及している。北欧でもこの方式はあるらしい。
※ビデ使用上の注意点
 「C」が熱湯で「F」が冷水。うっかり「C」でやると飛び上がるほど熱いお湯が出る場合があるので要注意。

トイレとビデは並んでおいてある


アジアではこの方式が主流

20 Air bnb のトラブル(マルタ編)
 今回も Air bnb を 3 回(マルタ、ナポリ、ソレント)利用した。過去 5 回使って一度もトラブルはなかった。今回もトラブルとはいえないまでもスムーズにいかない事象がいくつか発生した。
 一つはマルタで。①空港から 23 時過ぎにホスト(アパートのオーナー)に依頼したタクシーで到着した。運転手がホストから預かった鍵で部屋に入ろうとするのだがどうしても開かない。困った運転手がホストに連絡し間もなくホストが来た。私も運転手も4階と聞いていたが、実際には2階であった。
②翌朝部屋の説明を受けるため 9:30 で約束して部屋で待ったが来ない。ようやく1時間遅れでやってきた。その間どこにも行けず足止め。
③アシアナ航空でローマまで行きマルタ航空に乗り継いだが、ローマ着が1時間半遅れたため、ローマでは荷物なしでマルタ航空に搭乗した。そのためアパートには荷物なしで到着した。
困ったのはコンセント変換ソケットがトランクの中でパソコン、スマホともに充電が出来ず3日間一切のメール、電話も出来ない状態。その辺の事情は翌朝部屋の説明を受けたときホストに伝えた。荷物が着いたらホストが受け取るようにしていたので、3日間荷物が不着という事情はホストも十分承知しているはずだが、その間「何か困っていることはないか?」という問い掛けは一切なし。
 部屋に関しては何ら問題はなかったが、「おもてなし」精神の欠如は明らかで、これも国民性からくるものなのであろう。

この奥に 3 つのベッドルームがある、リビングは写真の手前


広いリビング、左奥がダイニングキッチン




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